2011年9月8日木曜日

パスカル・キニャール『辺境の館』

パスカル キニャール
青土社
発売日:1999-05

舞台は17世紀のポルトガル。
アルコバーサ家の令嬢ルイーザは、遊び友達の睾丸が牛に潰されるのを目の当たりにし、潰れた睾丸が切除される光景に強い印象を受ける。
やがて美しく成長した彼女は、夫を殺した仇に睡眠薬を飲ませ、懐刀でその陰茎と陰嚢を一息に切り落とす。

やたらに文章がかっこいい。おすすめ。

2011年9月4日日曜日

遅すぎるかどうか

The Blue Heartsの歌に、「遅すぎることなんてないんだよ」って意味の歌があります。
ついさっき、将来の選択についてふと思うことが調べ物をしていたのですが、その結果「行動を起こすのが遅すぎたかな」と感じて、それで思いました。
遅すぎたのでしょうか。

傾向として私は色々な決断や行動が遅い、ということがあると思います。
21です。もうずいぶん歳をとってしまいました。
60代くらいまでは、まだまだ若造という認識ですが、一般的にいって今からなんでも出来る、と言われる年齢ではない。

けれど思考法としては「遅すぎることなんてない」と考える方が、より健全で、建設的です。
なぜならば過去はもう過ぎ去ってしまい、それについて思索しても仕方がないのですから。
当たり前のことですが、悩んでいるときふしぎと忘れがちな事実です。ふしぎです。
過去について悔むコストを「現在なにをすべきか、どうすれば未来をよりよく変えられるか」について考えることに割り振れば、その分だけ得ができるのです。

ならばそのように考えましょう。

2011年9月3日土曜日

言葉と概念

「言葉がないのは概念がない証拠だ」ってよく言いますけど、ちょっと違うんじゃないかと思うようになりましたね、最近。かならずしもそうとは言えないんじゃないかなあ。
たとえば、「世間体」という言葉のない国では、世間体を気にしないみたいな。そういう話です。

ところで「肩こり」になるのは日本人だけだって話もありますね。「肩こり」という言葉があるのは日本だけだそうです。そもそも「肩こり」という言葉がないから、肩こりにもならない。ほんとかな。
でもよその国の人でも、日本に住んで数年経つと肩がこるようになるとか。疑わしいなあ。
「凍傷」を知らないイヌイットに「凍傷」という言葉を教えたら、途端に凍傷になりはじめたなんてのも聞いたことがありますが、こういうのは、まあ、多少大げさに言ってるところもあるのかもしれませんが、一応それなりの真実を含んでるんでしょうかね。

なんの話かな。ちょっと最初に戻りましょう。
ある言葉がないということは、概念がないということを意味するかどうか。
当たり前のような気もしますけど、でもこんなのはどうでしょう。

視力検査。想像してみてください。
ずらーっと「C」の形の記号が並んだ紙に向かって、少し離れた地点へ立って片目をふさぐ。
あの視力検査表に印刷されてる、あの「C」の記号。あれなんというかご存知ですか。
「ランドルト環」というそうです。へえ、あんなものにも名前があったかという感じですけど。
でもそれを指し示す言葉なんかなくても、ちゃんとあれの概念はみんな持ってるんじゃないかなあ。
「Cみたいなやつ」とか「視力検査の例のあれ」とかが名前といえば、名前なのかもしれないけど。

あと、あれね、プールのあとに使う目を洗うやつ。
だいたいみんな知ってるでしょう。
「ああ、例のあれね」と頷かれたことと思います。
やっぱりあれについても、言葉は知らずともきちんと概念としては把握してるように思う。そうでしょう。
でも、やっぱりこれも例としては弱いかなあ。ダメかもしれません。
あれそのものの名前は分からないにせよ、「蛇口」という言葉は知っているわけだし、それのプールバージョンという把握の仕方をしてると思えば……言葉なしで概念把握してるとは言えないような気もします。いけないね。
ところで、あれの名前は……残念ながら私も知りません。

2011年9月2日金曜日

丸谷才一『ロンドンで本を読む』

丸谷 才一
マガジンハウス
発売日:2001-06


イギリスの雑誌に掲載された書評の名品を訳して集めた本。

編著者の丸谷は『文章読本』で、込み入った内容を明晰な文体で伝えているために、その内容を自らの知性の所産であるかのように勘違いさせるような文章があると言っている。この本の何編かには確かにそんな気配がある。
読んだだけで頭がぐっとよくなる(気がしてしまう)し、相当な読書家に変身できた(という錯覚に襲われる)。

取り上げられている本はクンデラやナボコフなどの小説を中心に『ホーキング、宇宙を語る』まで、果てはマドンナ写真集なんてものまであって笑ってしまった。

それにしても丸谷才一には恐れ入る。
サイデンステッカー訳『源氏物語』の書評につけた解説で、イギリスの経済新聞がプルーストやジョイスを取り上げることについて、「よく言えば文学を愛しているし、悪く言えばスノッブ的」と評価した上で、
「しかしスノッブ的なものが社会にない限り、文明は高度なものになり得ないだらう」
とは、よくもここまで言ったもんだ。ごもっとも。

2011年9月1日木曜日

継続は力

「継続は力なり。」
小学生時代の恩師から賜った言葉で、今も忘れられないものです。
先生は私の幼年期にあって稀なほど尊敬すべき(というのは、当時の私の観察力で尊敬に値する資質を見出しうるという意味ですが。もちろん先生以外にも大勢尊敬すべき大人はいたことでしょう)人物でした。
この言葉はなにかノートに書いていただいたように思うのですが、そのノート自体は行方が定かではありません。
しかし、言葉は記憶に残り続け、折々思い出されます。
座右の銘と言ってよいでしょう。

しかし、一般に座右の銘というものは、わざわざ座右に置いていちいち朗誦せずとも達成しうるものなら、とりたてて大騒ぎして座右の銘にするほどのものでもありません。たとえば「毎朝ご飯を食べよう」とか。いや、守れない人もいるのかな。でも私は意識しないでも朝食を抜かすことはありません。時々昼を省略することはあるけど。
どちらかと言えば、毎日お題目のように唱えても達成できない難事であるからこそ、その言葉を後生大事にして、ことあるごとに自らに言い聞かせて戒めるのでしょう。
御想像の通り、私はこの言葉をほとんど活かすことができないでいます。

継続は力なり、とは恐ろしいほどに真実ですが、言葉を逆にしてこう言ってもいいかもしれません。
「継続しないものは力ではない」
積み重ねなしに突発的になされた行為はなにごともなしえない。たとえなしえたとしても、それを偶然の賜物ではなく、当然のなりゆきだと考えることは愚の骨頂です。
物事を深く考えたり、絵や文章を作ることに楽しみを見出す人なら誰でも、インスピレーションを信じているでしょう。
それは瞬間の出来事です。それが訪れれば、瞬時にして私たちは普段とは比較にならないような思考や精神の高みにまで上り詰めることができます。
しかし、その高みへの上昇が、一瞬の達成であると考えてはなりません。
そのような達成の陰には、その瞬間の何倍にもおよぶ努力の継続があったのです。
ソースを忘れましたが、ピカソは次のように言いました。
「インスピレーションを待つな。探しに行け。」
インスピレーションを求める絶え間ない継続があってこそ、それに出会うことができる。

ところで今日はめずらしく敬体で書いてみましたが、いかがでしょう。
宗教のパンフレットのような文章になりました。

9月になった

月日は百代の過客にして行きかう歳もまた旅人なりとは言っても、その日月に生きる私の方が旅人であるかどうかはおのずから別問題らしく、どうやら旅人らしからぬ日々を過ごした。
せいぜいが食客がいいところだろう。
月日は川の流れのごとく過ぎていくものだが、私の方はと言えば自ら歩き出さなければいつまでもとどまり続けるようだ。

4月にブログを始めてから随分と色々あったように思うが、色々なしたとは言えないようだ。
自分の想像にくらべて物事がうまく行かないことなんて、普通のことかもしれないが……
それにしても勿体ないとは思う。

アランによれば「お金もちになりたいと言って実際にならなかった人は、そうなるつもりが初めからなかった人だ」とのこと。
お金もちになりたければ、そのための手段を講じればいいのだ。それも直ちに。
また曰く、「頭の中で物事を計画しているよりも、実際に行動に移してしまう方がよい」。ごもっとも。

2011年4月22日金曜日

メモ:林浩平『折口信夫 霊性の思索者』

まれびと≒ほかひびと
+ほ:気息、プネウマ、「ほう」と吐き出す息;ほぐ;ほかう

常世/妣が国へ/にらいかない cf.「妣が国へ・常世へ
+異郷意識、間歇遺伝(アタヰズム)、ノスタルジー

みこともち(御言持者) 折口の天皇観
+平時は人間である天皇‐祭時には始原の時と場に戻り、自らが天神の資格を持つ
-御衣配:物質的想像力、衣←魂の付着 cf.分割可能な魂⇔カトリックの分割不可能な魂

柳田 祖霊=カミ‐折口 まれびと=常世から訪れるもの
+場所:霊山‐遠方の常世
+霊の表現:人々の心意-演劇的表現

短歌無内容説 cf.プネウマ

翁の発生」:翁、山人、もどき


参考
アルトー←デリダ
神=自らの言葉を奪い取るもの(プロンプター)


折口信夫論

2011年4月21日木曜日

タイマー

少し前にタイマーを買った。時間を設定してスタートを押すとデジタルの目盛が動き始めて、設定しただけの時間が経過するとアラームが鳴る。タイマーに行動の区切りをゆだねることにした。だいたい90分に設定してスタートを押す。そのぐらいが集中して行動できる限界だと思ったからだ。
タイマーを使用している間はそれなりに具合がいい。本を読むときも、日記か何かを書くときも、ついでに勉強する時も90分を目安に行動できる。表示を観れば自分がどの地点に居て、行動が遅れているのか順調に行っていて少々早すぎるくらいかと言ったことが分かる。時間を忘れて何かに励んでしまうことも、怠惰の苦い酒を無闇にあおることもなくなる。でもタイマーがないときはだめだ。私はなにもできなくなる。早くタイマーを買うべきだったのだ。タイマーなしで何かをするのは難しい。
家を出るときにも、タイマーをセットすればうまくいくかもしれない。90分以内で目的地にたどりついたり、それから家に帰ってきたり出来る。茫然として不必要な時間を過ごすということがなくなるだろう。それはとても良いことだと思う。私は時間を無駄に費やすことがとても嫌いだ。でも今までの私は、時間を無駄に費やすことに血道あげてきた。おそろしいことだ。だから私は私が嫌いだった。しかしタイマーを使用しているときの私は、よく用途を考えてさえあれば、時間を無駄に使うこともないので、それはとてもいいことだと思う。タイマーの電池が切れたら私はとてもこまるだろう。今表示は65分を切ったところだ。
このタイマーはカウントアップすることもできるが、そちらはあまり用いていない。

高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』

今まで読んだ本の中では、ボリス・ヴィアンに一番よく似ている。それから村上春樹の中編とサリンジャーにも少し似ているかもしれない。それで気付いたけど、私は春樹の小説が案外好きかも知れない。この小説も好きだ。とても好きだ。何が書いてあるのか考えてみると面白いかもしれない。今は考える気がしない。

2011年3月25日金曜日

レイモンド・カーヴァー『象』

象には思い入れがある。
象の出てくる小説ならなんでも好きなんじゃないかという気さえする。
もっとも、そうは言っても象の登場する本なんてたいして読んだことがないのだけど。

まずはじめに思い出すのは安部公房の小説だ。
都会の排水溝か水路に、死にかけの象が引っ掛かっているのだが誰もが見て見ぬふりをしているという奇妙なスケッチだ。タイトルは忘れた。
だいたい公房の小説と言えばどれも奇天烈な内容なのだけど、その中でもこれは特におかしくて気に入っている。
それから次に思い出す小説も、やはりタイトルは忘れてしまった。
去年か一昨年に買った同人誌に掲載されていた短篇で、饒舌な主人公が象のようななにかわからない生き物について語る、おおよそのところはそういう内容だ。
作中で象と呼ばれている象のようなものは、海からやってきて単細胞生物のように分裂して増殖する。
なにがなんだかわからなくて面食らったが、これもおもしろい。

カーヴァーのこの短編集も『象』という名でなかったら手に取らなかっただろう。
村上春樹に感謝だ。でも象は一切出てこなかった。

ひとつ面白かったのが、いかにも村上春樹が書いた小説のように思えるという点だ。
例えば、この個所。
「そうじゃないよ」と僕は言った。本当にそうじゃないのだ。でも母は僕の言うことなんか耳にも入らないという態度で喋り続けた。あるいは本当に耳に入らなかったのかもしれないけれど。
春樹が訳しているのだから春樹っぽいのが当然と言えば当然かもしれない。
だけどそれだけじゃなくて、彼がアメリカの小説から小説の書き方を学んだという事情が関係しているんだろうという気がする。
この書き方で、春樹風の文章を捏造することができそうだ。
「納豆ミルクセーキを飲むかい」と僕は言った。僕は納豆が好きだったのだ。でも母は僕は納豆なんか知ったこっちゃないという顔をした。あるいは本当に知らなかったのかもしれないけれど。
今後わが家の納豆の安定的供給はどうなるだろう。


レイモンド カーヴァー
中央公論新社
発売日:2008-01

収録作品:引越し/誰かは知らないが、このベッドに寝ていた人が/親密さ/メヌード/象/ブラックバード・パイ/使い走り

乙一『ZOO 1』

収録作品:カザリとヨーコ/SEVEN ROOMS/SO-far そ・ふぁー/陽だまりの詩/ZOO

乙一はよく読んできた。
最初に買った角川スニーカー文庫の短編集は何度もくりかえして読んだので、親指のあたる部分が変色してしまっている。
平面いぬ』や『天帝妖狐』は角がボロボロだ。
高校のころに入手した文庫版の『GOTH』は綺麗だけど、それでも二三回は読んだはずだ。
一番好きなのは『暗い所で待ち合わせ』だ。よく読んで、よく泣いたように思う。

「陽だまりの詩」もお気に入りの作品の一つだった。
昨晩読んで、泣きはしなかったが、やはり上手い。
物語の巧みさと、その表現の仕方に関してずば抜けている。
ロボットと言うと昔から萌えるのだけど、半分くらいこの作品のせいじゃないか。

毎日少しずつ読み返すつもりで、段ボールにしまってあった乙一の小説を本棚へ並べ直した。

2011年3月24日木曜日

『ポー名作集』

E.A.ポー
中央公論新社
発売日:1973-08
収録作品:モルグ街の殺人/盗まれた手紙/マリー・ロジェの謎/お前が犯人だ/黄金虫/スフィンクス/黒猫/アシャー館の崩壊

米文学において短篇小説は特に重要なものだという。ブルジョワ階級の未発達という社会的な条件、および雑誌の発達というメディアの条件が重なって短篇小説の需要が高かった。イギリスで短篇よりも長編が尊ばれていたことと好対照をなす。これらは本書の訳者丸谷才一がその好著『文学のレッスン』で語ったことだ。そして短篇小説を語るにあたって書かすことのできない作家がポーだ。
さすが東西の文学に親しみ語学堪能な訳者だけあって、本書の訳文も申し分ない名文である。洋物の推理物といえば素人が書いたような拙劣な翻訳と相場が決まっているものだ。

名作集の名の通り、どれも有名な作品だ。
巻頭の「モルグ街の殺人」はミステリの濫觴として名高いし、その続編「盗まれた手紙」は作品そのものよりも、ラカンによる読解(『エクリ』)で知られているかもしれない。
巻末の2編、「黒猫」と「アシャー館の崩壊」は怪奇物、というより異常心理を扱った小説の先駆けである。
「アシャー館」の冒頭部などはあまりにも有名で、教科書で読んだほどだ。
雲が低く重苦しく垂れこめているひっそりと静まり返った、陰鬱で暗い秋の日のこと、わたくしはただ一人、異様なくらい荒れ果てた地域にひねもす馬を駆りつづけたあげく、やがて宵闇が忍び寄るころ、憂愁をたたえたアシャー館の見えるところまで来た。
DURING the whole of a dull, dark, and soundless day in the autumn of the year, when the clouds hung oppressively low in the heavens, I had been passing alone, on horseback, through a singularly dreary tract of country, and at length found myself, as the shades of the evening drew on, within view of the melancholy House of Usher. 
この調子で、訳文で2ページにもわたってアシャー館の陰鬱な外観の描写が続く。
米文学の授業で聴いたことだが、原文のDuring the whole of a dull, dark, and soundless day in the autumn of the yearは見事に D が頭韻を踏んでいる。語頭でこそないがand, soundlessもやはり響きに役立っている。頭韻(Alliteration)を多用するのは英詩(とりわけ古英語詩)の特徴。この見事な書き出しはポーの詞藻のなせる技だ。
それにしてもいささか重々し過ぎる文章だ。長いし、しつこくもある。"a day"にかかる三つの形容詞は原文ではdull, dark, and soundlessとこれだけで済むが、日本語となると「ひっそりと静まり返った、陰鬱で暗い」秋の日だ。構文もややこしいし、いくら読みやすい訳文とはいえ骨が折れる。正直に告白するが館の細密な描写のパッセージはすこしばかり飛ばしながら読んでしまった。なにしろ2ページも続くのだから。

こんな重厚長大な冒頭部を、理由もなく書いたのでもないだろう。近代のアメリカを舞台として幻想的なゴシック小説を説得力あるものとして仕上げるには、それに見合うだけの幻想的な場所を用意する必要があったのだ。
それにしても、やはり読みづらい。
もしもポーが日本人だったとしたら、引用文に句点を三つは打っていてもおかしくない。
己の読解力を恥じるともに、彼我の言語の隔たりをも感じずにはいられない名文である。

エウリピデス『タウリケーのイーピゲネイア』


デウス・エクス・マキナが登場する個所など、滑稽に思えるかもしれない。
けれど漫画のストーリーもしばしばこんなものだろう。

備忘録

半月前の地震で本棚が倒れた。今も部屋は片付いていない。
それをきっかけにしてというのではないが、また読書を始めた。
以前は読んだ本はすべて記録していたものだが、しばらく読まないうちにその習慣を失っていた。
これからはここを読書の記録に使おうと思う。