2011年3月25日金曜日

レイモンド・カーヴァー『象』

象には思い入れがある。
象の出てくる小説ならなんでも好きなんじゃないかという気さえする。
もっとも、そうは言っても象の登場する本なんてたいして読んだことがないのだけど。

まずはじめに思い出すのは安部公房の小説だ。
都会の排水溝か水路に、死にかけの象が引っ掛かっているのだが誰もが見て見ぬふりをしているという奇妙なスケッチだ。タイトルは忘れた。
だいたい公房の小説と言えばどれも奇天烈な内容なのだけど、その中でもこれは特におかしくて気に入っている。
それから次に思い出す小説も、やはりタイトルは忘れてしまった。
去年か一昨年に買った同人誌に掲載されていた短篇で、饒舌な主人公が象のようななにかわからない生き物について語る、おおよそのところはそういう内容だ。
作中で象と呼ばれている象のようなものは、海からやってきて単細胞生物のように分裂して増殖する。
なにがなんだかわからなくて面食らったが、これもおもしろい。

カーヴァーのこの短編集も『象』という名でなかったら手に取らなかっただろう。
村上春樹に感謝だ。でも象は一切出てこなかった。

ひとつ面白かったのが、いかにも村上春樹が書いた小説のように思えるという点だ。
例えば、この個所。
「そうじゃないよ」と僕は言った。本当にそうじゃないのだ。でも母は僕の言うことなんか耳にも入らないという態度で喋り続けた。あるいは本当に耳に入らなかったのかもしれないけれど。
春樹が訳しているのだから春樹っぽいのが当然と言えば当然かもしれない。
だけどそれだけじゃなくて、彼がアメリカの小説から小説の書き方を学んだという事情が関係しているんだろうという気がする。
この書き方で、春樹風の文章を捏造することができそうだ。
「納豆ミルクセーキを飲むかい」と僕は言った。僕は納豆が好きだったのだ。でも母は僕は納豆なんか知ったこっちゃないという顔をした。あるいは本当に知らなかったのかもしれないけれど。
今後わが家の納豆の安定的供給はどうなるだろう。


レイモンド カーヴァー
中央公論新社
発売日:2008-01

収録作品:引越し/誰かは知らないが、このベッドに寝ていた人が/親密さ/メヌード/象/ブラックバード・パイ/使い走り

乙一『ZOO 1』

収録作品:カザリとヨーコ/SEVEN ROOMS/SO-far そ・ふぁー/陽だまりの詩/ZOO

乙一はよく読んできた。
最初に買った角川スニーカー文庫の短編集は何度もくりかえして読んだので、親指のあたる部分が変色してしまっている。
平面いぬ』や『天帝妖狐』は角がボロボロだ。
高校のころに入手した文庫版の『GOTH』は綺麗だけど、それでも二三回は読んだはずだ。
一番好きなのは『暗い所で待ち合わせ』だ。よく読んで、よく泣いたように思う。

「陽だまりの詩」もお気に入りの作品の一つだった。
昨晩読んで、泣きはしなかったが、やはり上手い。
物語の巧みさと、その表現の仕方に関してずば抜けている。
ロボットと言うと昔から萌えるのだけど、半分くらいこの作品のせいじゃないか。

毎日少しずつ読み返すつもりで、段ボールにしまってあった乙一の小説を本棚へ並べ直した。

2011年3月24日木曜日

『ポー名作集』

E.A.ポー
中央公論新社
発売日:1973-08
収録作品:モルグ街の殺人/盗まれた手紙/マリー・ロジェの謎/お前が犯人だ/黄金虫/スフィンクス/黒猫/アシャー館の崩壊

米文学において短篇小説は特に重要なものだという。ブルジョワ階級の未発達という社会的な条件、および雑誌の発達というメディアの条件が重なって短篇小説の需要が高かった。イギリスで短篇よりも長編が尊ばれていたことと好対照をなす。これらは本書の訳者丸谷才一がその好著『文学のレッスン』で語ったことだ。そして短篇小説を語るにあたって書かすことのできない作家がポーだ。
さすが東西の文学に親しみ語学堪能な訳者だけあって、本書の訳文も申し分ない名文である。洋物の推理物といえば素人が書いたような拙劣な翻訳と相場が決まっているものだ。

名作集の名の通り、どれも有名な作品だ。
巻頭の「モルグ街の殺人」はミステリの濫觴として名高いし、その続編「盗まれた手紙」は作品そのものよりも、ラカンによる読解(『エクリ』)で知られているかもしれない。
巻末の2編、「黒猫」と「アシャー館の崩壊」は怪奇物、というより異常心理を扱った小説の先駆けである。
「アシャー館」の冒頭部などはあまりにも有名で、教科書で読んだほどだ。
雲が低く重苦しく垂れこめているひっそりと静まり返った、陰鬱で暗い秋の日のこと、わたくしはただ一人、異様なくらい荒れ果てた地域にひねもす馬を駆りつづけたあげく、やがて宵闇が忍び寄るころ、憂愁をたたえたアシャー館の見えるところまで来た。
DURING the whole of a dull, dark, and soundless day in the autumn of the year, when the clouds hung oppressively low in the heavens, I had been passing alone, on horseback, through a singularly dreary tract of country, and at length found myself, as the shades of the evening drew on, within view of the melancholy House of Usher. 
この調子で、訳文で2ページにもわたってアシャー館の陰鬱な外観の描写が続く。
米文学の授業で聴いたことだが、原文のDuring the whole of a dull, dark, and soundless day in the autumn of the yearは見事に D が頭韻を踏んでいる。語頭でこそないがand, soundlessもやはり響きに役立っている。頭韻(Alliteration)を多用するのは英詩(とりわけ古英語詩)の特徴。この見事な書き出しはポーの詞藻のなせる技だ。
それにしてもいささか重々し過ぎる文章だ。長いし、しつこくもある。"a day"にかかる三つの形容詞は原文ではdull, dark, and soundlessとこれだけで済むが、日本語となると「ひっそりと静まり返った、陰鬱で暗い」秋の日だ。構文もややこしいし、いくら読みやすい訳文とはいえ骨が折れる。正直に告白するが館の細密な描写のパッセージはすこしばかり飛ばしながら読んでしまった。なにしろ2ページも続くのだから。

こんな重厚長大な冒頭部を、理由もなく書いたのでもないだろう。近代のアメリカを舞台として幻想的なゴシック小説を説得力あるものとして仕上げるには、それに見合うだけの幻想的な場所を用意する必要があったのだ。
それにしても、やはり読みづらい。
もしもポーが日本人だったとしたら、引用文に句点を三つは打っていてもおかしくない。
己の読解力を恥じるともに、彼我の言語の隔たりをも感じずにはいられない名文である。

エウリピデス『タウリケーのイーピゲネイア』


デウス・エクス・マキナが登場する個所など、滑稽に思えるかもしれない。
けれど漫画のストーリーもしばしばこんなものだろう。

備忘録

半月前の地震で本棚が倒れた。今も部屋は片付いていない。
それをきっかけにしてというのではないが、また読書を始めた。
以前は読んだ本はすべて記録していたものだが、しばらく読まないうちにその習慣を失っていた。
これからはここを読書の記録に使おうと思う。