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2011年9月4日日曜日

遅すぎるかどうか

The Blue Heartsの歌に、「遅すぎることなんてないんだよ」って意味の歌があります。
ついさっき、将来の選択についてふと思うことが調べ物をしていたのですが、その結果「行動を起こすのが遅すぎたかな」と感じて、それで思いました。
遅すぎたのでしょうか。

傾向として私は色々な決断や行動が遅い、ということがあると思います。
21です。もうずいぶん歳をとってしまいました。
60代くらいまでは、まだまだ若造という認識ですが、一般的にいって今からなんでも出来る、と言われる年齢ではない。

けれど思考法としては「遅すぎることなんてない」と考える方が、より健全で、建設的です。
なぜならば過去はもう過ぎ去ってしまい、それについて思索しても仕方がないのですから。
当たり前のことですが、悩んでいるときふしぎと忘れがちな事実です。ふしぎです。
過去について悔むコストを「現在なにをすべきか、どうすれば未来をよりよく変えられるか」について考えることに割り振れば、その分だけ得ができるのです。

ならばそのように考えましょう。

2011年9月3日土曜日

言葉と概念

「言葉がないのは概念がない証拠だ」ってよく言いますけど、ちょっと違うんじゃないかと思うようになりましたね、最近。かならずしもそうとは言えないんじゃないかなあ。
たとえば、「世間体」という言葉のない国では、世間体を気にしないみたいな。そういう話です。

ところで「肩こり」になるのは日本人だけだって話もありますね。「肩こり」という言葉があるのは日本だけだそうです。そもそも「肩こり」という言葉がないから、肩こりにもならない。ほんとかな。
でもよその国の人でも、日本に住んで数年経つと肩がこるようになるとか。疑わしいなあ。
「凍傷」を知らないイヌイットに「凍傷」という言葉を教えたら、途端に凍傷になりはじめたなんてのも聞いたことがありますが、こういうのは、まあ、多少大げさに言ってるところもあるのかもしれませんが、一応それなりの真実を含んでるんでしょうかね。

なんの話かな。ちょっと最初に戻りましょう。
ある言葉がないということは、概念がないということを意味するかどうか。
当たり前のような気もしますけど、でもこんなのはどうでしょう。

視力検査。想像してみてください。
ずらーっと「C」の形の記号が並んだ紙に向かって、少し離れた地点へ立って片目をふさぐ。
あの視力検査表に印刷されてる、あの「C」の記号。あれなんというかご存知ですか。
「ランドルト環」というそうです。へえ、あんなものにも名前があったかという感じですけど。
でもそれを指し示す言葉なんかなくても、ちゃんとあれの概念はみんな持ってるんじゃないかなあ。
「Cみたいなやつ」とか「視力検査の例のあれ」とかが名前といえば、名前なのかもしれないけど。

あと、あれね、プールのあとに使う目を洗うやつ。
だいたいみんな知ってるでしょう。
「ああ、例のあれね」と頷かれたことと思います。
やっぱりあれについても、言葉は知らずともきちんと概念としては把握してるように思う。そうでしょう。
でも、やっぱりこれも例としては弱いかなあ。ダメかもしれません。
あれそのものの名前は分からないにせよ、「蛇口」という言葉は知っているわけだし、それのプールバージョンという把握の仕方をしてると思えば……言葉なしで概念把握してるとは言えないような気もします。いけないね。
ところで、あれの名前は……残念ながら私も知りません。

2011年9月1日木曜日

継続は力

「継続は力なり。」
小学生時代の恩師から賜った言葉で、今も忘れられないものです。
先生は私の幼年期にあって稀なほど尊敬すべき(というのは、当時の私の観察力で尊敬に値する資質を見出しうるという意味ですが。もちろん先生以外にも大勢尊敬すべき大人はいたことでしょう)人物でした。
この言葉はなにかノートに書いていただいたように思うのですが、そのノート自体は行方が定かではありません。
しかし、言葉は記憶に残り続け、折々思い出されます。
座右の銘と言ってよいでしょう。

しかし、一般に座右の銘というものは、わざわざ座右に置いていちいち朗誦せずとも達成しうるものなら、とりたてて大騒ぎして座右の銘にするほどのものでもありません。たとえば「毎朝ご飯を食べよう」とか。いや、守れない人もいるのかな。でも私は意識しないでも朝食を抜かすことはありません。時々昼を省略することはあるけど。
どちらかと言えば、毎日お題目のように唱えても達成できない難事であるからこそ、その言葉を後生大事にして、ことあるごとに自らに言い聞かせて戒めるのでしょう。
御想像の通り、私はこの言葉をほとんど活かすことができないでいます。

継続は力なり、とは恐ろしいほどに真実ですが、言葉を逆にしてこう言ってもいいかもしれません。
「継続しないものは力ではない」
積み重ねなしに突発的になされた行為はなにごともなしえない。たとえなしえたとしても、それを偶然の賜物ではなく、当然のなりゆきだと考えることは愚の骨頂です。
物事を深く考えたり、絵や文章を作ることに楽しみを見出す人なら誰でも、インスピレーションを信じているでしょう。
それは瞬間の出来事です。それが訪れれば、瞬時にして私たちは普段とは比較にならないような思考や精神の高みにまで上り詰めることができます。
しかし、その高みへの上昇が、一瞬の達成であると考えてはなりません。
そのような達成の陰には、その瞬間の何倍にもおよぶ努力の継続があったのです。
ソースを忘れましたが、ピカソは次のように言いました。
「インスピレーションを待つな。探しに行け。」
インスピレーションを求める絶え間ない継続があってこそ、それに出会うことができる。

ところで今日はめずらしく敬体で書いてみましたが、いかがでしょう。
宗教のパンフレットのような文章になりました。

9月になった

月日は百代の過客にして行きかう歳もまた旅人なりとは言っても、その日月に生きる私の方が旅人であるかどうかはおのずから別問題らしく、どうやら旅人らしからぬ日々を過ごした。
せいぜいが食客がいいところだろう。
月日は川の流れのごとく過ぎていくものだが、私の方はと言えば自ら歩き出さなければいつまでもとどまり続けるようだ。

4月にブログを始めてから随分と色々あったように思うが、色々なしたとは言えないようだ。
自分の想像にくらべて物事がうまく行かないことなんて、普通のことかもしれないが……
それにしても勿体ないとは思う。

アランによれば「お金もちになりたいと言って実際にならなかった人は、そうなるつもりが初めからなかった人だ」とのこと。
お金もちになりたければ、そのための手段を講じればいいのだ。それも直ちに。
また曰く、「頭の中で物事を計画しているよりも、実際に行動に移してしまう方がよい」。ごもっとも。

2011年4月21日木曜日

タイマー

少し前にタイマーを買った。時間を設定してスタートを押すとデジタルの目盛が動き始めて、設定しただけの時間が経過するとアラームが鳴る。タイマーに行動の区切りをゆだねることにした。だいたい90分に設定してスタートを押す。そのぐらいが集中して行動できる限界だと思ったからだ。
タイマーを使用している間はそれなりに具合がいい。本を読むときも、日記か何かを書くときも、ついでに勉強する時も90分を目安に行動できる。表示を観れば自分がどの地点に居て、行動が遅れているのか順調に行っていて少々早すぎるくらいかと言ったことが分かる。時間を忘れて何かに励んでしまうことも、怠惰の苦い酒を無闇にあおることもなくなる。でもタイマーがないときはだめだ。私はなにもできなくなる。早くタイマーを買うべきだったのだ。タイマーなしで何かをするのは難しい。
家を出るときにも、タイマーをセットすればうまくいくかもしれない。90分以内で目的地にたどりついたり、それから家に帰ってきたり出来る。茫然として不必要な時間を過ごすということがなくなるだろう。それはとても良いことだと思う。私は時間を無駄に費やすことがとても嫌いだ。でも今までの私は、時間を無駄に費やすことに血道あげてきた。おそろしいことだ。だから私は私が嫌いだった。しかしタイマーを使用しているときの私は、よく用途を考えてさえあれば、時間を無駄に使うこともないので、それはとてもいいことだと思う。タイマーの電池が切れたら私はとてもこまるだろう。今表示は65分を切ったところだ。
このタイマーはカウントアップすることもできるが、そちらはあまり用いていない。

2011年3月24日木曜日

備忘録

半月前の地震で本棚が倒れた。今も部屋は片付いていない。
それをきっかけにしてというのではないが、また読書を始めた。
以前は読んだ本はすべて記録していたものだが、しばらく読まないうちにその習慣を失っていた。
これからはここを読書の記録に使おうと思う。